端渓硯について

端渓硯とは、中国広東省肇慶市を産地とする“端渓石”と呼ばれる種類の石を素材として作られた硯の名称であり、硯の一種類です。しかし、端渓硯は単なる硯の一種類ではなく、おおよそ、その出現時(初唐)から“硯の最高峰”として絶対的な地位を他に譲ることはありませんでした。

当店では、老坑水巌をはじめ、最も石質の良いとされる端渓有名三抗(老坑、坑仔巌、麻仔坑)と、歴史的にも評価の高い端石である宋坑の硯を中心とした商品を取り揃えております。

  1. 天然石であり、手作りなので全てが逸品といえる
  2. 美しい石色と様々な石品(石紋)
  3. 施された石刻・意匠には古くから伝わる意味がある
  4. 端渓硯は美術工芸品・吉祥器物としての評価が高い
  5. もちろん、硯として実用面でも最高峰

端渓硯について

端渓硯とは、中国広東省肇慶市を産地とする“端渓石”と呼ばれる種類の石を素材として作られた硯の名称であり、硯の一種類です。しかし、端渓硯は単なる硯の一種類ではなく、おおよそ、その出現時(初唐)から“硯の最高峰”として絶対的な地位を他に譲ることはありませんでした。
王朝期時代、端渓硯の佳品ともなれば皇帝へ貢がれ、また、高級官僚のあいだではそれを所有することがステータスともなり、ときには賄賂として使われることもあったほど希少で収蔵価値の高い硯でした。
古来、端渓硯は硯としてのその優秀さを称賛されてきました。
“墨の伸びが良い”、“墨色が良い”、“墨の下りがはやい”、“墨を磨る力が衰えない”、“溜めた墨が涸れない”、“筆先を損じない“
なぜ、端渓硯は硯として必要な諸条件を満たしているのか、現代の科学的調査からその理由が解明されています。端渓石のモース硬度は極めて低く、粒度は極めて細かく、また吸水性、透水性においても極めて低いということです。これらの特性が優秀な硯であるための条件と合致しているからだとされます。

端渓硯の歴史は 1400年以前へ遡る

端渓硯の歴史は古く、歴史資料や詩文、伝世品、墓からの出土品を実証に、唐の高祖の年号である武徳元年、今からおよそ1400年前の西暦618年にはすでに世に出ていたことが分かっています。

端渓硯のふる里

端渓硯のふる里

写真:羚洋峡

端渓硯のふる里は、中国の南方、広東省肇慶市にあります。肇慶市は古くは端州とされ、省都の広州市から西へ約100キロに位置します。肇慶市のすぐ南には、西江という河が流れており、その長く悠々と続く様から"中国第三の大河"とされています。肇慶市街からこの西江沿いに北東へ進んでゆくと、羚(れい)洋峡(ようきょう)と呼ばれる地域に到達します。西江を挟み、西側に七星巖と北嶺山、東側に斧柯山(ふかざん)(爛(らん)火山(かざん)とも呼ばれます)がそびえ立ち、この山河の眺めは広東随一の景勝地とされています。
そしてこの北嶺山一帯、羚洋峡一帯には優秀な硯石が採掘される洞坑がいくつも点在しており、ここが王朝期時代から有名な「端渓硯のふる里」とされてきました。なぜ、端渓硯は古くから有名なのかと考えますと、それは端渓硯の代名詞ともされる"老坑水巖石"の存在がその所以となります。天然資源が豊富な中国において、硯材としての条件を最も高いレベルで満たした材が、老坑水巖石でした。
優秀な硯材であるための条件は、固型墨を速やかに下(磨る)すことができ、墨の伸び、墨色が良いこと、筆の先を痛めないこと、墨汁を蓄えても涸れないこと、永く使用しても磨る力が衰えない等があげられます。そのためには、硯石のモース硬度が低く、また、粒度がきめ細かい硯材でなければなりません。それらの条件を全て満たしているのが、老坑水巖石でした。

硯の発祥国、中国において、硯は非常に重要な文物といえます。硯の歴史の中には中華民族の価値観や思想、精神性が秘められていると言っても過言ではありません。そしてその最高峰とされる硯材が、老坑水巖石であり、肇慶市が産地なのです。
2004年、肇慶市は国家から「硯都」の称号を授与され、中国国内はもちろんのこと、日本など海外から訪れる観光客にその名を印象づけるとともに、北京や上海などで展示会を開催するなどし「端渓硯のふる里」として今もその歴史を繋げています。

端渓水と三大名坑

端渓硯のふる里

肇慶市の北嶺山一帯、羚洋峡一帯には硯材として優れた石を産出する、いくつもの坑が点在しています。
特に、斧柯山の山間を流れる渓流の東側一帯には最も優れた硯石が採掘される坑が集中して存在します。 この渓流の水は"端渓水"と呼ばれます。
硯材として最高峰とされる有名な"老抗"(老坑水巌)、これに次いで良質とされる"坑仔厳"(巖仔坑とも呼びます)、そして"麻子坑"は、この端渓水一帯に存在する坑で、これら三抗は「端渓三大名抗」とされ、王朝期時代より皇帝をはじめとし、高級官僚や文画人のあいだで大変尊ばれてきました。
特に、老抗の存在は、端渓硯そのものの地位を「文房四宝」の最たるものとし、また端渓硯が「中国四大名硯」(他に歙硯、?河硯、澄泥硯)の第一とされてきた所以ともなっています。

老坑水巌

老抗水巖

写真:肇慶市博物館

古くから硯の最高峰とされてきたのが老坑です。老坑の洞坑は地上から下って掘り進められ、その硯石は年中水に浸かっているため、"老坑水巖"とも呼ばれています。墨のおりが良く、使用する墨の艶と延び、墨色の良さを最大限に引き出す能力を備えているといわれています。石質は肌理が細かくしなやかで、筆先を痛めることもなく、王朝期時代から端渓硯が中国一の硯とされてきた所以となる硯が老坑水巖石です。
また、老坑水巖石は非常に希少なことで有名です。その採掘作業には多くの人夫を必要とし、また非常に難儀を極める作業のため、民間のちからでは到底かなわず、王朝期時代から国家事業として政府の管轄のもとで開催が進められてきました。地上より下って掘り進められる老抗は一年中水に浸かっているため、乾季にあわせ、所々狭く低くなっている坑道から人夫が甕で水を汲み出しリレーで排水作業に挑みます。水が枯れたところで石工が石脈を見分けて良質の硯材を採石するのですが、一回の開催期間に採れる佳石はほんの僅かでしかありません。採石された佳石は優秀な石工によりその天然の形状や石紋を生かした彫刻を施され、貢品(皇帝へ貢ぐ贈り物)とされることや、皇帝から臣下へ下賜(賜硯)されることもありました。
老坑水巖石は、灰藍色にわずかに紫藍色をおびているのが特徴とされます。また、様々な石紋(石品と呼ばれます)があり、水に濡らすととても綺麗に見えますので石紋を鑑賞することも古くから楽しまれてきました。

端渓硯は "文房四宝"の王さま

中国では、房は"室"という意味で、詩や文章を書く部屋、あるいは書や書画・水墨画等を制作する部屋を"文房"といいます。文房は日本的に言えば書斎であり、アトリエということになりますが、その文房に欠かすことのできない硯、墨、筆、紙は「文房四宝」と呼ばれます。なかでも硯は文房四宝の王さまとされますが、それは硯が唯一、消耗品ではなく、万世不朽な恒久品であるということに付け加え、やはり、端渓硯の長所が凝縮された硯の最高峰、老坑水巌石の存在によってその座を獲得したといっても過言ではありません。

端渓硯の名前の由来

老抗水巖

写真:端渓水(渓流)

端渓硯の名前の由来としてはいくつかの説があります。端渓硯の石材の産地である肇慶市が古くは端州と呼ばれていたためという説と、斧柯山の山間を流れる渓流の水が「端渓水」と呼ばれ、これが端渓硯の名称の由来になっているという説です。また、この辺りを流れる西江を古くは端渓とも称したからという説もあります。

新老坑? 新坑仔巌? 新麻子坑?

老坑旧洞

写真:老坑旧洞

古来、端渓三大名坑とされてきたのは、老坑、抗仔巌、麻子坑を指します。老坑は2000年頃、坑仔巌、麻子坑は2007年頃に閉鎖され、それから現在(2017年12月)に至り採石されることはありませんでしたし、今後もその予定は聞きません。そのため、これから増々、これら三大名坑の硯が希少になってきている状況です。
そういった状況下にある近年、これらの名前に"新"をつけて、"新老坑"、"新坑仔巌""新麻子坑"という名称の硯が登場しています。これは、肇慶市街から50キロ以上離れた鼎湖区沙捕鎮一帯の"沙捕坑区"と呼ばれる地区で採れる硯石です。沙捕坑区には"見た目"が三大名坑の石に非常によく似ている硯石が採れる諸坑があるため、これらをもって有名三坑の名前に"新"を付けた名称をうたっているようです。しかし、沙捕坑区で採れる硯材は、古来有名な端渓三大名坑の石質とは全く異なります。また、端渓の硯の特徴である紋里(硯の表面の墨を磨る部分)の細かさもありません。もともと沙捕坑区で採れる硯材は、明朝末期から清朝初期より度々採掘されてきましたが、当時は手頃な実用硯として使われていたようです(ただし、この沙捕坑区で採れた硯石のなかには、硯材として非常に優秀な石質のものも多少、見つかっているという近年の調査記録もあります)。

老坑新洞

写真:老坑新洞

また、硯の最高峰とされる老坑に関しては、もう一つ追記すべきことがあります。老坑には入り口が二つ存在します。"旧洞口"と呼ばれる入り口と、"新洞口"と呼ばれる入り口です。老坑は、王朝期時代の採掘は全て旧洞から行われ、新洞口は1976年に開かれました。新洞口は、旧洞から南に約13メートル離れた場所から堀進められ、旧洞に繋がっています。つまり、入り口は違いますが、昔からの老坑へ通じているのです。そしてこの新しい入り口、新洞口ができたことによって旧洞口が閉鎖されることになるわけですが、ここで日本では「老坑はもう閉鎖された。今採れるのは "新老坑"という全く別の坑から採れる石らしい」といった情報がかなり広く流布されました。しかし、事実はそうではなく先述したとおり、老坑は2000年頃の閉鎖まで度々採掘されていました。
 近年、沙捕坑区から登場した"新老坑"の存在と、旧洞口に対して新洞口が開口した時期の"新老坑"説が相まって、日本で混乱を招いた時期があったということです。
そこで、端渓硯のふる里である肇慶市の専門家のなかでは、今後は端渓硯の名称に区別をつけた方が良いとの意見が出てきております。

"端渓硯"と"端石硯"と"端硯"

古来、端渓硯は色々な呼び方をされてきました。いま、唐代から清代までの王朝期時代に記された詩文や文献に残された名称を並べてみますと"端州石硯"、"端渓紫石硯"、"端渓硯"、"端渓石"、"端石"、"端石硯"、"端硯"など、色々な名称で呼ばれてきたことが分かります。唐代では端渓と名の付く硯はみな斧柯山の端渓水一帯に産する硯石でつくられた硯を指しましたし、その後も端渓硯の代名詞となっていたのは、端渓水一帯の三大名坑と呼ばれる"老坑"、"坑仔巌"、"麻子坑"の硯石で作られた硯でした。近年では沙捕坑区で採れる硯石をもって、新老坑、新抗巖、新麻子坑という名称の硯が登場してきています。
こういった中、地元の肇慶市の専門家の中では、端渓硯の名称に区別をつけることが提案されています。それは、端渓三大名坑とされる"老坑"、"坑仔巖""麻子坑"を「端渓硯」とし、その他を「端石硯」とし、全部の総称を「端硯」としたらどうか、といった呼びかけです。そしてこの提案は、端渓三大名坑の硯の保護と、端渓硯の名声の維持が目的ということです。「端渓硯のふる里」である地元の関係者からの提案でありますから、日本でもこの提案にできるだけ沿って硯の名称を区別してゆくことで、今後、少しでも名称による混乱を避けることができるかも知れません。

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